コラムB&W
「写真展紹介」コーナーでは、原則的にモノクロ作品の個展をご紹介させていただいております。ご紹介させていただいた展覧会には可能な限り伺い作者にご挨拶をしています。その折の感想等を追加書き込んできましたが、紹介の時期と会期が離れていたり会期末に訪れたりであまりお読みいただいていないようです。 今後は『コラムB&W』で折々に感じていることなども含めて書いて行きたいと存じます。
093 DAYS JAPAN7月号の特集『いま問われる写真の力』は必見
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今日発売のDAYS JAPANは『いま問われる写真の力』は必読です。特に写真家の皆さんにお勧めします。私自身、仕事を見直す良い機会となりました。
特集の内容は、1、『写真のリテラシー』ではピュリッツアー賞と世界報道写真コンテストを紹介しています。2、『ベトナム戦争報道の原点から学ぶ』では、ホルスト・ファース氏が撮影したベトナム戦争を広河編集長が開設しています。3、『ドキュメンタリー撮影の裏方に徹する』では、ナショナル・ジオグラフィック誌のコーディネーターの門脇邦夫氏が編集の秘訣を紹介しています。 |
092 デジタル・ゼラチンシルバー・モノクロプリント(DGSM)を学ぶ
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年末に家電量販店に行ったところ、DVDレコーダーやプレーヤーは皆無、ブルーレイ(BD)機器ばかりでした。
光ディスクは、CD→LD→DVD→BDと進化するたびに、前世代のソフトや記録が再生できなくなります。デジカメが普及した現在は多くの写真データがDVDに記録されていることでしょう。機器が壊れれば中古品を探さなければなりません。「新世代のメディアにコピーすれば良い」との見解がありますが、『業務』としてならば可能でしょうが一般人には無理かと思います。結果、多くの写真や映像が四散し失われることでしょう。昨年の画像保存セミナーでハイブリットアーカイブ法(デジタルデータをバーコード画像に変換しポリエステルベースのフォルムに記録する)などが紹介されていましたがいずれも企業規模の対策でした。一写真家としての良い方法を探しました。
昨年秋、永嶋勝美先生が提唱されているデジタル・ゼラチンシルバーモノクロプリント法(DGSM)に偶然出会うことができました。デジタルデータをカラープリンターでフィルムに出力し、出来たネガを銀塩モノクロ印画紙に密着プリントする方法です。これならば、数十万円程度の初期投資と既存の暗室を使ってデジカメデータを長期保存することができます。今年はこの方法の学びの時としたいと思っています。 |
091『写真の本道‐銀塩モノクロ写真』と題して書きました。
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日本リアリズム写真集団の「写真リアリズム」272号に「写真の本道-銀塩モノクロ写真」を寄稿しました。付属の現代写真研究所の特別講師として、カラー理論とカラープリント実習を担当している縁でのご依頼でした。銀塩写真やモノクロ写真の記事が誌上から絶えてしまった現状でのご依頼なので喜んで引き受けさせていただきました。
内容は、当サイトの記事、日本写真文化協会の機関誌「写真文化」での連載(2006年2月号〜9月号)、茨城県高等学校文化連盟写真支部(通称:茨城高写連)の「会誌」などで書いてきたものを4ページにダイジェストしたものです。
ダイジェストしたため舌足らずな部分も多いかと存じますが、私の写真に対する思いを網羅しているものです。内容の詳細は次の中見出しでご推察願います。「便利さを得て、何を失ってしまったのか」「デジタルフォトのメリットとデメリット」「証拠能力について」「データの保存性」「オリジナルデータとは」「画素とモアレ」「写真の粒子とは」「何故銀塩モノクロ写真に拘るのか」「モノクロ写真の魅力は『黒』の美しさ」「モノクロ暗室作業のポイント」「実効感度について」「B
to Bテストプリント法」「銀塩写真の保存について」「モノクロ写真の復権を願う」
なお興味をもたれた方は、日本リアリズム写真集団事務局にお問合せください。
住所:〒160-0004東京都新宿区四谷3-12沢登ビル6階 電話:03-3355-1461 ファックス:03-3355-1462
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090報道写真の火を消してはならない!
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「遺体のない戦争」がある訳がない。しかし日本のマスコミが報じる戦場の写真にはほとんど遺体の写真がない。「見たくない」という読者と「見せたくない」という現実。しかし見なければ真実はわからない。確固たる姿勢で現在の世界の様子を報じ続けているのが雑誌DAYS JAPANです。大マスコミの影で働くフリーの写真家たちの活躍の場でもあります。いま休刊の危機だとのこと。報道写真の火を消してはならないのです。
DAYSJAPAN(情報1、情報2、情報3)
朝日新聞は、2009年12月28日夕刊で「硬派写真誌 背水のSOS」と報じている。「命をかけて現場に行き、そこで生き抜く人々とまっすぐ向き合う者だけができる報道」と歌手・加藤登紀子氏が語り、「同誌の代わりはない。写真が語りかけているものをいや応なく感じ取れ、既に知っている話題にもじっくりと対峙できる」と写真家・大石芳野氏が語っている。昨年末、広河隆一編集長よりメールをいただきました。転載歓迎とありますので全文を転載いたします。
広河隆一からのお願い(転載歓迎)
DAYSは12月9日日本写真家協会賞を受賞しました。写真界では日本でもっとも権威のある団体から評価を受けてうれしく思っています。フランスのペルピヤンでの審査員を勤めるなど、海外での評価も高まっています。世界では今ではほとんど唯一となったフォトジャーナリズムの雑誌を絶やしてはいけないという励ましも、多く受けることができました。東京都写真美術館では、サルガド展開催中に、DAYSのサルガド特集号は300冊以上売ることができました。週末の私の大阪講演で、年間定期購読者は19人増え、これでキャンペーン開始からの新規定期購読者は、370人になりました。私の写真展を開催していただいている三重県の宮西さんのメールが発信されてたった1日半で、21人の方々が定期購読を申し込んでくださいました。これで390人になりました。DAYSが存続をかけたキャンペーンをしているということを聞いて、朝日ニュースターの上杉隆キャスターは、22日(火)の8時からの生放送を準備していただいています。
皆さんのおかげで、DAYSはなんとか6周年に向けて進んでいます。「500人定期購読者が増えれば、存続できます」というキャンペーンの500人という数字に、あと110人に迫っていました。しかし正直言いますと、DAYSはまだ6周年を迎える3月以降も存続できるかどうか、確約することはできない状況です。お金が全くないというわけではありません。DAYSはこれまでまったく借金をしないで、6年近く続けてきました。そしてまだ私たちが手をつけていないお金があります。それはDAYSにもしものことがあって、休刊せざるを得ないことが起こったら、すでに定期購読をしていただいている方々に、残金を返金するためにとってあるお金です。このお金に手をつけざるを得ない状態になりそうになったら、私は皆さんに事情をお話して、DAYS休刊のお知らせする覚悟でいます。営業や拡販をする立場からすると、年末年始の休暇は、恐ろしい時期です。この時期には書店に行く人は激減し、すべての雑誌の売上げが低迷するからです。今出ている12月号は店頭からあと数日で姿を消し、1月号が書店に並びます。しかし世間ではすぐに年末・年始の休暇に入るのです。その前にこのメールを出しておきたいと思いました。「努力すれば続けられることができたのに、しなかったから休刊になった」まどと、あとで後悔したくないからです.これまでDAYSを支えていただいた方々にお願いします。まず定期購読をお申し込みください。年内の特別キャンペーン中にお申し込みいただきますと、定期購読料を7700円と1000円引きになります。かつて購読していただいたけれども、最近は購読を止めているという方は、もう一度購読をご検討ください。すでに購読いただいている方は、1人でも2人でも増やしてください。定期購読期間がまだ残っている方も、継続手続きを今していただきます、7700円になります。あと数日で姿を消す12月号も、読んでいただいた方からは、高い評価をいただいています。まだお読みになっていない方は、ぜひとも書店でDAYSを書店で購入してください。書店の人に、「おや?DAYS販売の流れが変わってきたな」と思わせるような動きを作りたいのです。
ボランティアの方々にお願いします。さまざまなイベントでのご支援、本当にありがとうございました。物販、定期購読拡大、周囲の人へのDAYS購読呼びかけなど、いま一度のご支援をお願いします。
2009年12月 DAYSJAPAN編集長 広河隆一
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088 フォトジャーナリズム・フェスティバル(早稲田大学・『DAYSJAPAN』共催)
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早稲田大学構内で、早稲田大学と雑誌『DAYSJAPAN』の共催で『WASEDAフォトジャーナリズム・フェスティバル』が開催されています。『DAYSJAPAN』の編集長広河隆一氏が同校の卒業生であることと、幾多のジャーナリストを輩出してきた早稲田大学が歴史が融合して企画されたものでしょう。
11月23日から12月5日の期間に数多くの講演会やスライドショー、映像の上映が行なわれ、校舎の内外で写真展が行なわれています。常設展示場の大隈タワー「125記念展示室」では、写真展の他に広岡隆一氏が撮影されたドキュメント映像『人間の戦場40年』は約70分とのこと。(全400時間を編集)24日に行った時には、次のスライドショーの開催が迫っていたので数分しか見ることができなかった。時間をたっぷり確保して行かなければなりません。また特別展示の『触れる地球』は地球の様々な事象が動く映像として展示されて大変面白かったです。これを含めて改めて見に行く予定です.。
11月27日の上映会『ロバート・キャパ 5つの戦場を撮った男』『カメラマン サワダの戦争 5万カットのネガは何を語るのか』『戦場の目撃者 9.11からイラク戦争へ カメラマンの記録』、12月4日の『花はどこへいった』上映会、12月5日の『中村梧郎の追跡〜枯れ葉剤被害は終わらない〜』は、何とか都合を付けて見に行きたいと思っています。 1967年、私は報道写真家を志して上京し東京綜合写真専門学校で写真を学びましたが、還暦を過ぎたいま『写真を見る側』に身に置くことが多いことを恥じています。この機会に大いに学び活動のエネルギーとさせていただきます。
グラフ雑誌といえば1936年にアメリカで発刊されたライフ。「フォト・エッセイ」という表現手法を確立させて多くの世界的な写真家を育てたことは歴史的事実です。1972年まで週刊誌として発行され、1973年〜78年は年2回の発行。1978年〜2000年までは月刊誌として出版されていましたが2000年に完全に廃刊となりました。テレビの登場で多くのグラフ雑誌が姿を消しました。今はネットを通して多くの映像が見られるのでさらに厳しい。そんな時代に『DAYSJAPAN』が出版されています。創刊5周年とのこと。若い写真家を育てるためにも頑張ってもらいたいものです。
(2009年11月26日)
※各チラシをクリックし、拡大してお読みください。 |
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087ヒカリカメラ松戸店の閉店!また一歩遠のいた銀塩写真! |
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私はJR常磐線松戸駅から徒歩12分ほどのところに住んで20余年になります。駅への途中、松戸駅東口近くにヒカリカメラという中古カメラ屋さんがあります。アサヒカメラや日本カメラに1ページの広告を出しているお店です。このお店には随分お世話になりました。リンホフ・テヒニカ、スーパーローレックス、ハッセルのプラナー120ミリとディスタゴン50ミリ、マグニファイヤー、スポーツファインダー、キヤノン6L用のロッコール28ミリ、ニコンFとF3のボディなど新品では買えなかった物を買わせていただきました。他にニコールAF28〜70ミリ、AF28〜200ミリ、200ミリ、マイクロニコール55ミリ、マイクロニッコール105ミリ、スピードライトSB-16も購入。閉店ということで、写真学校入学以来使ってきた露出計スタジオデラックスの予備も3000円で購入しました。また東京綜合写真専門学校の女子学生が、「4×5の引伸し機が欲しい」というのでお世話になったこともあります。
帰宅時、だいたい上野駅で缶チュウハイを仕込んでいますのでヒカリカメラに着くころにはとても良い心地になっています。・・・でショーウインドを覗いてから店内に入り、軽くカメラ談義をするのが至福の時でした。何しろ店内にはカメラ修理をする店長がいるので話が弾みます。・・・先日立ち寄った際に「来る6月13日に閉店します。」と聞かされ大いにショックを受けました。また一歩銀塩写真とメカニカルカメラが遠のいたとの感があります。残念でなりません。長年のお付き合いに感謝しています。銀塩カメラに興味のある方、来店されたらいかがでしょうか。掘り出し物があるかも!!
連絡先:住所 松戸市松戸1241 電話 047-368-6556
(2009年5月26日)
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086また一歩遠のいたのか?銀塩写真!
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12月に入ってショックを受けたことが2件ありました。
ひとつは月刊『写真工業』の休刊です。私が写真関係の雑誌で唯一定期購読していたのが『写真工業』でした。専門性が高く資料性に富んでいたからです。我が家のリフォーム際も最後まで整理できませんでした。置くスペースが無くなり、仕方なく最も必要と思われるページを外し他のページを処分しました。
このホームページの『環境にやさしい暗室処理』を書くにあたっては、大いに参考にさせていただいたのが『写真工業』の記事でした。特に60年代から70年代には、私たちが使う現像液などの処理についての記事が多く掲載されていました。幾多の示唆があり感謝しています。休刊にあたり写真工業出版社から発表された謹告の一部を引用させていただきます。「--1952年の6月号より56年間の長きにわたり発刊してまいりましたが、昨今のデジタル化による業界の急激な変化により、『写真工業』という題号で対応することがむずかしくなったこともあります。また小誌の所期の目的は充分に達せられたとの認識の基に、このたびの運びになりました。--中略--写真も含めた映像制作関連の各種別冊、書籍など、時代に即した情報発信を展開していく所存であります。-以下略-」
1977年、東京綜合写真専門学校で授業を担当することになりました。『10の授業をしようとしたら100の内容が必要だ』と気付き勉強の足りなさを痛感しました。これで学生の前に立って良いものかとも悩みました。当時の重森弘淹校長が「小山、俺だって教壇に立つ時には膝がガクガクしているんだ。頑張れ。」と励ましていただいたことを思い出されます。モノクロ暗室の授業をするためには、センシトメトリー(露出と現像の科学)が必要と感じて『写真工業』で学んだのです。同社の関連書籍を何冊も読ませていただきました。また同社の『写真用語辞典』は、今も座右の書です。それだけに今回の月刊『写真工業』の休刊は寂しい限りです。
二つ目はハンザのスポッテイング・カラーの発売終了でした。私は営業写真館向けの兜x士写真のものを使っていますし、他にスポトーンなどもありますが、写真学校で使われている最も一般的なハンザのものが無くなったのは残念です。
銀塩写真がまた一歩遠のいてしまったという思いがする、年の瀬です。
(2008年12月5日)
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085カメラを持って歩く。それがリハビリ。
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もう7・8年前になるでしょうか。東京のJR飯田橋駅近くにあった日本写真学園(2005年3月閉校)で講師をしていた時に、シルバー世代のための短期講座の雑誌広告で「カメラがあれば5キロの道が歩ける」というキャッチコピーを作ったことがありました。このコピーに健常者が健康な老後が過ごせるためという思いを込めたつもりでした。
2002年夏、新横浜にある障害者スポーツ文化センター横浜ラポールの企画室の方から「障害を持つ方々のための『初めての写真教室』という講座の講師をしていただきたい。」という電話がありました。多少躊躇したのですが引き受けました。定員30名中障害を持つ方々が20名、残り10名ほどが健常者という構成で教室が開かれました。10回の講座が修了したところで「せっかくの出会いですから、先生が良ければ今後も写真を勉強したい。」という申し出がありました。そこでボランティアとして講師役を引き受けました。会は『ラポール写真同窓会』と名乗り月一回(第2土曜日10時から)の勉強会を始め今日に至っています。リハビリの意味を考え積極的に歩いて撮影をされています。現在では『初めての写真教室』の受講生より、その後に横浜ラポール構内に展示された作品を見て入会された方が多くなっています。また始めは介護者として同伴されていたご夫人方が入会され積極的に作品を作っておられます。会は、健常者の方々が世話役を引き受けてくださり円滑に運営されています。
このたび世話人の方が『ラポール写真同窓会』のホームページを作られたのでご紹介したいと存じます。ぜひ見てください。当会では、近くにお住まいの身体のご不自由な方のご参加をお持ちしています。また全国で写真を指導されている方々にぜひ体のご不自由な方々へのご指導をお願いしたいと思っています。
ちなみにラポールという語は、フランス語で「面接、カウンセリング、診断などにおける相互の親密な信頼関係」という意味です。
(2008年9月23日) |
082『ダンカン ピカソを撮る』展を見ました。
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11月15日午後、写真展巡りで都内を歩きました。まずは品川のキャノンギャラリーSの林忠彦先生の「東海道」と義勝さんの「十六夜日記」を見て、銀座と新宿を巡って最後はシリウスで開催されているゾーンシステム研究会展のオープニングへ行く予定。品川から新橋へ、新橋で下車してコダックフォトサロンへ向かう途中、路上に「ダンカン ピカソを撮る」(吉井画廊)という立て看板を見つけました。さっそく拝見。ダンカン氏がピカソを撮影した作品は数点見ていましたが、会場には70点もの作品が展示されていて圧巻でした。被写体は全て画家ピカソ。ピカソの秘密が写しだされているように思えました。私は、特にピカソの背後に虹が出ている横位置の作品には魅了されました。ぜひ見ていただきた写真展です。詳細は「写真展紹介」ページで紹介しています。
D・D・Dことダビット・ダグラス・ダンカンの名は私にとって特別なものです。1967年写真を学ぶべく上京したころに知った写真家だからです。当時はベトナム戦争真っ只中で、沢田教一氏や一ノ瀬泰造氏など多くの従軍写真家が命を落としていました。一般の方にも知られている報道写真家ロバート・キャパは、第一次インドシナ戦争(ベトナム対フランス)で地雷に触れて亡くなっています。
ダンカン氏はライフ誌のスタッフ写真家として活躍され、第二次世界大戦時の沖縄の取材を皮切りに朝鮮戦争やベトナム戦争を取材してきました。朝鮮戦争従軍時にニッコールレンズの優秀性を証明したことは有名で、日本のカメラ工業界に大きな功績を残しています。グラビア特集「ダンカンの目がとらえたケサン」(サンデー毎日誌1968年3月31日号)は今も持っています。左記へ引用しました。画面をクリックしてしばらく待つと拡大マークが出てきます。それをクリックすると鮮明な画面となり判読できます。ぜひお読みください。
「英雄なき戦争」という写真展をニコンサロンで開催されています。ベトナム戦争終結後の1975年頃、写真集「War Without Heroes」を購入し毎晩のように繰返し見ていたことを思い出します。ベトナム戦争で活躍した先輩写真家に思いを馳せていたのでしょう。
(2007年11月16日) |
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077富士フォトサロン(銀座)ついにクローズ!
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2007年7月12日午後7時30分、富士フォトサロン(銀座)が惜しまれつつ50年の歴史を閉じました。富士フィルム鰍フ東京ミッドタウン(六本木)に会社機能を集中するという方針に沿ったものなのでしょう。
18時から「50年分のありがとう」という会が行なわれました。案内状を頂いたので私も参加しました。開会前から多くの写真関係者が三々五々集ってきました。以前日本写真家協会の技術研究委員会でお世話になった女性写真家には20年ぶりぐらいでお会いすることができました。普段はお会いできない方々に会うことができた懐かしさ一杯の会でした。19時過ぎには会場を去る方々も多かった。きっと近所で飲み直しされたのでしょう。
富士フォトサロン(銀座)は1957年7月3日開設されました。第一回展は富士フォトサロン展、そして第二回展が「名取洋之助報道写真展」でした。名取氏は、岩波写真文庫の編集を担当され長野重一氏や東松照明氏という巨匠を育てられた方ですから、これが実質上のオープニング写真展と言って良いのではないでしょうか。当時常設の写真ギャラリーといえば、松島ギャラリー(1951年〜1957年)と小西六フォトギャラリーしかなく、大規模な写真展は高島屋(京橋)か松屋(銀座)で開催されていました。そんな事情もあって富士フォトサロン(銀座)は、写真界の発展に大きな役割を果たしてきたのです。その後松屋ギャラリーを引き継ぐ形で発足したのが銀座ニコンサロン(1968年開設)でした。
「50年分のありがとう」会に出席した者は、「富士フォトサロン 50年の歴史1957〜2007」という年表のお土産をいただきました。じつはこれが目当てで出席したようなものです。「日本現代写真史1945〜1995」(社団法人日本写真家協会編纂・平凡社刊)に年表担当として編集に加わった時、この年表の原資料となった思われる写真展のリストをお借りしたことがあったからです。
昨今は美しい風景写真を主としたアマチュアの写真展が多くなっていましたが、開設当時は写真史に残る名作が数多く開催されていました。頂いた年表から拾い出してみます。1957年8月、杵島隆「裸」。9月、奈良原一高「王国」。12月、長野重一「香港」。
58年1月、濱谷浩「詩のふるさと」。5月、中村正也「ジャックの裏」。9月、藤川清「部落」。12月、川島浩「未来誕生」。60年3月、土門拳「筑豊の子供達」。7月、長野重一「ベルリン・東と西と」。奈良原一高、「カオスの地」。 61年5月、佐藤明「女たち」。8月、福島菊次郎「ピカドン」。 62年7月、東松照明「ドキュメント1961・ナガサキ」。9月、桑原史成「水俣病」と続きます。報道写真やドキュメンタリーが元気だったことを物語っています。
今回年表を頂いて気がついたことは大学生が頑張っていたことです。「東京六大学写真展」「全日本学生写真展」「東都六大学写真展」「関西学生写真連盟展」などなど、まるで野球の試合のようですね。
毎週、富士フォトサロン→コダックフォトサロン→銀座ニコンサロン→キャノンギャラリー→ギャラリーアートグラフの順で写真展巡りしていたので、来週からは寂しくなります。長年良い作品を見せていただきましたし、東京綜合写真専門学校や日本写真学園の卒展の折はスタッフの方々にお世話になりました。感謝申しあげます。
(2007年7月14日) |
076 秘訣は名作を繰返し見ること
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神田神保町の魚山堂書店から「映像 デザイン
広告 印刷 写真機写真関係文献目録」が送られてきました。年三回発行される古本のブックリストです。
魚山堂書店の店主伊藤俊一さんとは、同店が旗の台駅(東急池上線と大井町線の交差点)近くにあった時に何度かお会いしています。しばらく前に神保町にお店が移転しましたが今だお店に行っていません。目録を見て本名をファクスすれば購入できるからです。そんな関係で朝日新聞に掲載された記事広告『視線の轍(わだち)』を、3月11日付け「コラムb&W」で紹介した次第です。御茶ノ水や秋葉原近辺には週二度ほど行くので足を伸ばしてお店に行ってみたいと思っています。魚山堂書店さんの目録を必要とする方は直接お問合せ願います。電話03-5211-6003、FAX03-5200-5488
いつもは写真技術と写真史の項目のリストを見るだけでしたが、久しぶりに写真集のリストを見ました。そこには高額写真集がたくさん掲載されていました。私の本棚には、「ヨーロッパ・静止した時間」奈良原一高(168.000円)、「人間の土地」奈良原一高(42.000円))、「地の貌生の貌」濱谷浩(47.000円)、「パリ」木村伊兵衛(126.000円)、「11時02分NAGASAKI」東松照明(105.000円)、「日本」東松照明(198.000円)、「家」篠山紀信(168.000円)がありました。( )内の数字は目録にある価格。濱谷浩氏の「地の貌生の貌」以外は独身時代に生活費を切り詰めて購入したものです。一所懸命勉強した証し?ほとんどが古本で購入したので上記のような値段にはならないでしょうが、何となく得した気持ちになりました。
写真が旨くなるには名作を繰返し見ること。恩師の重森弘淹先生は、合評(学生の自由作品を複数の先生方が批評する授業)が終わると、「小山、俺は家に帰って名作写真集を見るのだ。学生の写真を見ると批評眼が鈍るから」と常々仰っていたことを思い出します。写真集が投機の対象となって高騰していることを残念に思います。
(2007年7月3日) |
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073何故売れぬ写真集!報道写真家の嘆き!
写真集「この大地に命 与えられしもののたちへ」
清流出版株式会社
2007年3月27日刊
¥2.400+税
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友人の報道写真家桃井和馬さん(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会会員)からメールが送られてきました。そこには報道写真家の悲痛な叫びがありました。転送自由ということですので以下に掲載します。
※
桃井和馬です。3月中旬に出版した写真集「この大地に命 与えられし者たちへ」(清流出版・2400円+税)の売れ行きが、正直なところ、まだまだの状態です。そこで、これはお願いメールです。出版業界は冬の時代を迎えています。特に写真集は「真冬の時代」をずっと続けています。しかし、瞬間を切り取った写真の役割は、「想像力」が失われた今という時代だからこそ、重要だと確信しています。けれども、出版した本が売れなければ、その作家は、市場から容赦なく淘汰され、次ぎの本を出すこともできなくなるわけです。これが厳しい現実に他なりません。そこで、お世話になっている皆様にお願いがあります。
1/書店などでお求め下さい。2/お住まい、または会社近くの図書館で、「この大地に命 与えられし者たちへ」(清流出版)をリクエストしてください。3/インターネット書店のレビューへの書き込み、また皆様のブログで応援してください。
少しでも多くの本が売れることが、私は私が出会った被写体への責務を果たすことだと思っています。また、少しでも多くの本が売れることが、「金だけが物差しになってしまった日本社会」に対する、「もうひとつの生き方」を提示する方法だと思っています。日本社会の中で化石になった「フォトジャーナリズム」という職種を応援する意味でも、以上をよろしくお願いいたします。このようなメールをお送りする無粋をお許しください。 桃井和馬
以下、前回のメールでお送りした内容です。いつも取材中考えているのは、私はなぜ、地球という星に生まれたのか? ということです。この時代、この星に生まれたことには意味がある。それは何なのか? そして、私という個だけでなく、人類がこの地球にいることにも意味があるはずです。 この写真集では、そのことを、正面から捉えてみました。戦争や紛争に明け暮れる人類。環境を破壊し、人々の叫びも聞こえてきます。しかし同時に、人々は許し合い、愛を語る存在でもあるのです。人類はこの地球で、狂気と正気の狭間を揺れ動きながら、今という時代を編み続けているのでしょう。人類=ホモサピエンス(知恵を持つ人)は、地球の未来に対し、どんな知恵を発揮することができるのか? どんな未来を切り開いていくのか?
一枚一枚の写真を丹念に見つめると、きっといろいろなことが想像できると思います。そして想像力を刺激することが、この本の狙いでもあるのです。ちなみに掲載写真は主にデジタルで、ここ5年ほどで撮影したもの。現在、都市部の大型書店では平積みにされているとのことですので、大型書店、またはインターネットなどで、お買い求め頂けますと幸いです。なお、本の売り上げは、インターネットでの評価が大きく影響することが分かってきています。この本がひとりでも多くの方に見ていただけるよう、また桃井和馬の仕事を支える意味も込めて、書店で購入された方も是非、インターネット書店などに感想を残しておいてください。
桃井和馬
※
写真集「この大地に命 与えられし者たちへ」は、「9・11テロ事件」の現場グランド・ゼロの写真で始まります。「この、あまりにも無機質で メタリックな光景が 出現した瞬間から 人類は新しい時代に 突入してしまったのかも知れない。・・・」で始まるコメントが付け加えられています。そしてエルンスト・ハースが写真集クリエーションで描いたように天地創造を物語る風景写真が続きます。・・・その後は、戦争という人類が犯した罪の数々が・・・このように真実を追う素晴らしい写真集が何故売れないのでしょうか。現実を見たくないというのでしょうか。この写真集には大マスコミが伝えない多くの事実が写し出されています。写真家個人を支えるということ以上に、この写真集で現実を直視することを広げたいのです。私も微力ながら協力したいと思っています。この欄をお読みいただいた皆様、桃井氏の願いを受け入れていただきますようお願い申しあげます。また桃井氏のホームページにもアクセスしてください。http://www.e-mb1.com/momoi/
(2007年4月23日) |
写真集「破壊される大地」
岩波書店
2003年12月5日
¥1.800+税 |
072その昔、写真学校は地名で呼ばれていた。
東京綜合写真専門学校
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私が写真を志して上京してきた頃(1967年)は、東京工芸大は中野、日本大学芸術学部写真学科は江古田、日本写真芸術専門学校は渋谷、東京綜合写真専門学校は日吉、東京ビジュアルアーツは旧校舎のあった御茶ノ水、他に廃校となった日本写真学園は飯田橋、千代田写真専門学校は上野と呼ばれていました。また横浜には関東写真実技学校という学校もありました。・・・で校名が長く似ていたのでつい所在地の名前で呼んでしまったのでしょう。
いま写真教育は一大転換期を迎えています。そのことを裏付けるように入学者が減っています。デジタル時代で撮影が楽になり専門教育を受けるほどのことは無いということなのかもしれません。デジタルフォトに問題がないのか一考の要があると思います。
1枚のネガから多量の複製ができることが写真の特徴といえます。写真批評家の故重森弘淹先生は、その著書『写真芸術論』で「コロディオン法の出現は写真が比類のない--たとえばそれまでの版画技術以上に--複製技術手段であることを証明したのである。そしてまた安価に肖像写真が手に入る喜びを大衆に与え、大衆はまた肖像写真熱にうかされることになったのである。大衆の肖像写真熱はブルジョワジーの階級的象徴として独占されていた肖像画の解放を意味するものであった。つまり肖像画の大衆化のはじまりであった。しかし写真が複製技術手段としてその位置を決定的にしたのは、写真が印刷技術という、もうひとつの複製技術と結びついてからである。」と写真の複製芸術としての意味を記されています。写真の複製・伝達という産業的期側面を評価するとデジタルカメラの有効性にはかないません。たしかに携帯電話とノートパソコンがあればリアルタイムで送稿できるなどその利便性は優れています。またWeb上での展開は正に多量複製の極みでしょう。従って銀塩写真とくにモノクロ写真は、マスメディアから脱却して新たなる歩みが必要なのかもしれません。
重森先生は、1973年から勤めた東京綜合写真専門学校の校長であり恩師であります。実習助手・研究室員(教務スタッフ)・研究室長(教務主任)・専任講師・非常勤講師と肩書きは変りながら務めてまいりました。だから東京綜合写真専門学校は愛する母校です。専任講師のころ学園祭でラーメンの模擬店を出していました。重森校長はスープを全部飲み干してから「小山!まあまあだな。」といわれた言葉を懐かしく思い出します。昨年(06年)11月の学園祭で久しぶりにラーメン屋を開きました。味は好評だったと思っています。なんせ男の料理ですから食材は豪華なものです。アゴ(トビウオ)の煮干と利尻の根コンブでとったスープにエバラの最高級のラーメン醤油を使うのですから、不味いはずはありません。その折り「小山ラーメンは、リターンかファイナルか」と話題になりました。3月31日、同校との講師契約が満了、1973年実習助手として就職してからの34年にわたる関わりが終了しました。昨年の学園祭で小山ラーメンはファイナルでした。これからは一卒業生として母校を見守りたいと思っています。
(2007年4月15日) |
070『視線の轍(わだち)』という朝日新聞の記事広告
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還暦を迎える今年の正月は元日からバタバタしていました。看護師の妻は元日勤務、昨年独立して都内に転居した長男と秋葉原に小さいながらも事務所を構えた次男はともに家に寄り付きません。二人とも仕事が面白いようです。3日、近くの写真館で家族写真を撮ってもらうことだけを約束しそれぞれの都合に合わせることにしました。私は元日の消印を貰うべく年賀状を準備して一日を過ごしました。
溜まった新聞を整理していたら『視線の轍(わだち)』という記事広告を見つけました。「今、この瞬間を切り取り記録する写真は、時を経て熟成するもう一つの現実」というコピーが付いていました。朝日新聞広告局製作の広告特集で上半分が記事広告、下半分は印刷用紙・印刷インキ・印刷機材のメーカーの連合広告でした。いわゆる紙媒体の関連会社の年賀名刺広告といって良いのでしょう。電子媒体に対し紙媒体側の企業が団結することが必要なのだと思います。魚山堂書店の伊藤俊一さん、長岡製作所の長岡啓一郎さん、針穴写真家の田所美惠子さんの三人がそれぞれ写真を語っています。そこの企画は、私のような銀塩モノクロ写真に拘るものに大きな励ましを与えてくれました。遅ればせながら、引用させていただきご紹介いたします。
1月4日、古書店魚山堂書店の伊藤俊一さんが紹介されていました。東急・旗の台にお店があった時代に写真関係の本を探し何度か訪れたことがあります。朝日ソノラマ社の「適正露出への挑戦」が、書き込みでボロボロになってしまいましたので注文しました。お店に行ったら書架にもう1冊あったのでそれも買い求めビニール袋に入れたまま置いてあります。神保町に移ってからはまだ行ったことがありません。年4回送られてくる図書目録で本を探しファックスで注文すれば良いからです。書架を丹念に探すのが愛書家の真髄でしょう。暇ができたら日長一日、魚山堂で過ごしてみたいと思っています。
1月5日は木製カメラ長岡製作所の長岡啓一郎さん。木製暗箱あるいはウッドビューと呼ばれるカメラを作る会社の社長さん。この種のカメラは、製作者の温もりが感じら使う者が愛情を注ぐ対象でもあります。私は、ビューカメラのジナーFとフィールドタイプのリンホフ・テヒニカ、8×10はトヨフィールド810を持っていますが凡て金属製です。ウッドビューには強い憧れを持っています。
1月6日は針穴写真家・田所美惠子さん。AE(自動露出)あたりまえAF(自動合焦)は顔認識まで進歩しています。手ぶれ防止技術も最近確立しました。便利!べんり!ベンリ!そこには人間は介在できません。だから最も不便な針穴写真写真機(ピンホールカメラ)に憧れるのでしょう。記事にあるように空き箱でカメラを作るのは楽しいし、撮影が主ならばレンズ交換式の絞り優先AEカメラのボディキャップに針穴を開けて使うのも良いでしょう。また高級家具に使われるチーク材と真鍮出作られているカメラZeroも楽しい。感材は各種フィルムでも良いが、手作りカメラなら印画紙をネガ代わりにする紙ネガ・紙ポジ法も面白でしょう。田所美惠子さんは日本針穴写真協会(事務局:京都造形大学)の副会長を務めています。
この企画広告『視線の轍』は、銀塩写真モノクロ派としては嬉しものですし励ましでもあると思います。
(2007年3月11日) |
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067頑張れ!栃木工業高校写真部!
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少々旧聞になりますがニコンの広報紙の写真部支援マガジン「Top Eye」(No.238)に、「マイカメラ 自作カメラは想像以上のド迫力」という一文が載っていました.著者は、栃木県立栃木工業高校2年の木野内哲也さんです。彼らが作ったのは木製の8×10インチカメラです。工業高校ですから工具が揃っているとはいえ大変なことだったでしょう。苦労振りは記事をお読みください。
さて栃木県立栃木工業高校といえば、今年の全国高等学校綜合文化祭写真展で最優秀賞を受賞した手塚峻征さんがいます。カメラ作りばかりではなく、作品作りにも頑張っている写真部のようですネ。顧問の先生からは、彼の作品(8×10インチの密着プリント)を送っていただきました。「『銀塩モノクロ写真』は巨額の費用を賭けなくとも、高校写真部の暗室からも『最高のプリント』が目指せることも魅力の一つではないでしょうか。」とのコメントもいただきました。栃木工業高校写真部これからも頑張ってください。
高校写真部の活動に注目したいものです。当HPの「ニュース」欄では、昨年の4月「高校生が、銀板写真と湿板写真に挑戦」という朝日新聞・茨城判(2005年3月22日付け)の記事をご紹介しました。改めてお読みいただければ幸いです。
(2006年12月3日) |
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065重たい心で巡った満蒙開拓の村々
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新宿ニコンサロンで開催中の後藤俊夫さんの「満蒙開拓の村へ」(9月19日〜25日)を拝見しました。発行前の写真集「黄土高原/満蒙開拓の村」(10月30日発行)には「甘粛省各地と寧夏回族自治区、陝西省、山西省の一部地域を、2001年秋から05年夏まで計5回、撮影旅行を企てた。その旅行で延べ1万キロの道のりをできるだけ田舎の道を選んで、県(日本の町に相当)から県へと移動しながら、その途中途中で農村集落に入り、そこに住む人々と日常の生活を撮影したのが本書の写真である。」とあります。またあとがきには「黄土高原の奥深い田舎の食堂でたまたま食べた美味しい米が遥か離れた中国東北産米であることを知ったとき、ふと満蒙開拓との関係を考えてみたのです。時間の余裕ができて、自分の生れる前後の日本の歴史を学び直していたからです。このことがきっかけとなって後に、残留孤児となってしまった、年齢が私と6,7歳前後する同年代の人たちの人生に不条理さを感じて『戦後60年満蒙開拓の村へ』というテーマで撮影を始めることになりました。」と制作の動機が書かれています。敬服に値するお仕事だと思います。作者は茨城県の公立高校の元教員。在職中は写真部の顧問、茨城県高写連の事務局を務められたとのこと。17年間、茨城県高写連のお手伝いしている私にとっては関係が深い方です。
戦後、残留孤児を生み出すことになった『満蒙開拓』、全国で一番多くの人々を送り出したのが私の故郷長野県です。その中でも特に多かったのが、南信の天竜川流域飯田・伊那地方でした。満蒙開拓団を送り出すについては、長野県の新聞と教育が大きな役割をはたしたと聞いています。「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」(長野県歴史教育協議会編、大月書店刊)の解説文には「なぜ長野県は『義勇軍送出全国一』になったのか。全国で8万人を超え、長野県で7千人に届こうとする大量の義勇軍送出の背景には、何があったのだろう。とりわけ『興亜教育』をかかげ、多くの若い生命を、言語に絶する満蒙の辺境地帯に送り込んだ長野の教育界に責任はないのか。体験者の声や資料から事実を探り、問題の所在を明らかにする。」とありました。昭和22年生れの私は『団塊の世代』のトップランナーとして生きてきました。小中高といわゆる『信州教育』で育ちましたが、満蒙義勇軍送出の反省に立った教育を受けてきたように思います。ちなみに信濃教育会会館は実家から徒歩で7分ぐらいのところにあります。
(2006年9月23日) |
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064「フィルム文化を存続させる会」と手を携えねばと思う。
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昨日(2006年9月18日・敬老の日)は、日本海を北上中の台風13号の影響で生暖かい雨の一日、講師を務めている専門学校東洋美術学校の学生さんから案内を頂いた「フィルム文化を存続させる会」のシンポジウムに参加しました。
「フィルム文化を存続させる会」は、8ミリ映画を表現手段としている方々が富士写真フィルム鰍ェ発表した「シングル8の製造販売の終了(2007年3月末)と現像処理の終了(2008年3月末)」を契機に、フィルム文化を守ることを主旨として集った会でした。15時より、シンポジウムに先立って8ミリ映画の上映会が行なわれました。「Return
To Forever」(乙部聖子)、「陰陽 第三版」(荻原貴之)、「連続四辺形」(原田一平)、「しゅわしゅわ」(黒川通子)、「いどうだいすき」(芹沢洋一郎)の順で上映されてきましたが「いどうだいすき(23分の大作)」の上映中に絵流れが生じ、急遽シンポジウムに切替られました。
パネラーは、昼間行雄(映像作家)、原将人(映画監督)、波多野哲朗(映画研究家)の3氏。昼間行雄氏の発言終了時(17時)に所用のため中座しました。氏の「ハードの進歩がいいことばかりではない。」という主張は、『写真文化』に書いた「『便利』は良いことなのか。」という私の主張と重なっています。
「連続四辺形」の原田一平氏が作品解説に書いていることを引用させていただきます。
この作品は8mmフィルムの小さなコマを35mmスライドフィルムにブローアップし、そのフィルムをカッター切り貼りして1コマずつイメージを合成したのち、再び8mmカメラでアニメーション撮影しています。今ときの作業ならば素材をスキャンしてパスでマスクをきり、レイヤーを重ね、そのレイヤーをシークセンスに展開してレンダリング、という工程になります。PC創世記に手作業で制作されたこの作品の工程がデジタルでの作業に置き換えられることが重要なポイントです。多くの合成・編集ソフトや3DCGのアニメーション機能はノーマン・マクラレン流のアニメーション理論でプログラムされています。用語はもちろんのこと、オプチカルプリンターの工程、レンズの口径やf値、フィルムのタイプ番号やジェル、編集バサミにいたるほとんどがプログラム化されています。
つまり最先端のデジタル映像技術はフィルムを基本としているということです。この作品でえがかれている時代を隔てた親子のホームムービー同様にフィルム文化のDNAはデジタルに受け継がれています。もし「フィルムなんて古臭いメディア。これからはデジタル。」とか言われたら「ドルビーデジタルのデーターがどこに保存されているか知っていますか?」と切り返すといいかもしれません。根っこのフィルムをなくして実は育ちません。どうか、目先の利益にとらわれず未来を見据えてほしいものです。
※なお11月に第2回シンポジウムが計画されているとのこと。お知らせいただき次第、当HPの『募集』に掲載いたします。
(2006年9月19日) |
063『最後の1社になってもやる。』
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社団法人日本写真文化協会の機関誌『写真文化』に『モノクロ写真にこだわる』と題して連載することができました。同会は、営業写真館の団体つまり読者は皆プロなのです。それ故かなり緊張して書いてまいりましたが、9月号をもって6回の連載が終了しました。
最後の部分に次のように書きました。 「最後の一社になっても・・・4月28日付けの新聞各紙は「富士写真フィルム株式会社から写真を除いた新社名に!」と報じました。その折の古森重隆社長の談話に「写真(銀塩)事業から最後の一社になるまで撤退しない。」とありました。「なるまで」ではなく「なっても」と言い換えて「最後の一社なっても撤退しない」ことを願ってやみません。銀塩写真とくにモノクロ写真を大事にすることは。繊細な感性を持つ日本人、高度な生産技術を持つ日本の企業に科せられた使命ではないでしょうか。貴重な映像記録を後世に残すことが写真に関わる全ての者の責任です。」
先日新聞を整理していましたら8月9日付け朝日新聞の経済面に、富士写真フィルム株式会社古森重隆社長の談話が載っていました。 「写真は貴重な文化。銀塩フィルムも価値のある技術だ。写真文化を支えるためにリストラするのだし、古いというだけで切り捨てられない。最後の1社になってもやる。レンズ付きフィルム『写ルンです』もやめない。デジタルと銀塩の両方で写真文化を支える。」
このコラム058(5月2日付け)で、「『最後の一社になるまで』ではなく『最後の一社になっても撤退しない。』と言って欲しいのです。」と書いた私の願いが届いたようで嬉しく思っています。
(2006年8月24日) |
朝日新聞8月9日朝刊 |
057PHOTO IMAGING EXPO 2006で見たもの
3月23日から26日まで東京ビックサイトで開催されたPIE(PHOTO
IMAGING EXPO 2006)へ行ってきました。以前のカメラショー・用品ショー・IPPF・ラボショーが合体してフォトエキスポとなり、デジタル時代になってPIEという名前になりました。
数年前からデジタル一辺倒、特に今年はコニカミノルタ鰍ェ写真業界から撤退ということもあってでさびしい限りでした。こんな思いは私だけかもしれません。毎年恒例のモデル撮影会やメーカーのブースではモデルを追っかける男性で賑わっていました。しかし暗室用品はほとんど見られません。唯一ラッキー引き伸ばし機の藤本写真工業鰍セけが展示していました。健闘を称えたいものです。他のメーカーは、綜合カタログに掲載するだけでした。一昨年のフォトエキスポ時代には現像タンクなども展示されいたのですが残念でなりません。特に暗室用品は手にしてみなければ使い勝手が判りません。お店で箱を開けてみるわけにいかないので何とかならないかと思います。
イベントにはいろいろ面白いものがありました。日本カメラ博物館の特別展示「ライカ」は見ものでしたし、「キッズ&ファミリーフォトパーク」では写真の普及の努力を見ることができました。「親子で楽しむ写真の世界」は、「クロサンゴ」と呼ばれる紙製組み立てピンホールカメラで撮影し、富士フィルムの「ダークレス現像キット」でフィルム現像が行なわれました。その後、会議室に特設された暗室でプリントを楽しむというもので人気を集めていました。モノクロ写真を知らない子どもたちにモノクロを体験してもらう良い機会でした。ご苦労様でした。
※写真は左からビックサイト全景、藤本写真工業のブース、NPOザ・ダークルーム・インターナショナルの巨大ピンホールカメラとスタッフ、ダークレス現像器でフィルム現像を楽しむ小学生(右手前がクロサンゴ)、でき上がったプリントの展示
※「親子で楽しむ写真の世界」は、日本写真協会、日本針穴写真協会、日本プリンター協会、NPOザ・ダークルーム・インターナショナルの共催でした。
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053東京都写真美術館へ早く行けば良かった!
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展覧会の会期が長いとついつい行きそびれてしまいます。現在、東京都写真美術館で開催中の「写真展:岡本太郎の視線」と「発掘された不滅の記録 1954〜1975 VIET
NAM そこは、戦場だった。」も会期終了間際となってしまいました。「写真展:岡本太郎の視線」は、運営委員を務めた「日本の子ども60年展」の会期の後半と重なっていました。「発掘された不滅の記録」と一緒に観れば良いと思っていたのですが、残すところ1週間になってしまいました。
「写真展:岡本太郎の視線」は画家の片手間仕事と侮っていたのかもしれません。氏の作品「太陽の塔」とかコマーシャルの「グラスの底に顔があっても良い。」などになじめなかったからです。会場に入ってまず目にしたのはブラッサイの作品、マン・レイ、ロバート・キャパの作品が続いています。彼らは、岡本氏がパリ留学中の交友相手とのこと「さすが世界の芸術家岡本太郎だけのことはある。」と感激したり反省したりでした。圧巻は、拡大して展示されている岡本氏の密着プリント。芸術新潮の「藝術風土記」に連載された秋田や沖縄の写真のものです。
「発掘された不滅の記録 1954〜1975 VIET
NAM そこは、戦場だった。」は、朝日新聞社が主催するものです。1954年から1975年までのベトナム戦争の記録です。ベトナム戦争の後半は私の青年期と重なります。写真家を志したのは、高校時代にダナン攻防戦での写真を見たことが動機となりました。思いを深めた写真展でした。
ベトナム通信社(VNA)の従軍カメラマンの作品を軸に、朝日新聞の特派員や日本人フリーカメラマンの作品が加えられています。中にはピュリッツァー賞や世界報道写真展の受賞作品もあり、かなりの写真は見たことがあるものでした。当時の新聞紙面に(VNA・ジャパンプレスサービス)というクレジットで掲載されていた写真の原画を見ることができ感激しました。また困難な状況のなかで撮影され現像処理されたにも関わらず美しいプリントのものが多くこれにも感動しました。当時のことを考えればプロパガンダとしての役割も負っていたのでしょうが、時を経ることにより貴重な記録となっていることには間違いありません。
初めて観たものに「マングローブの茂る沼地に設けられた解放戦線の野戦病院・・」という写真がありました。蚊帳で覆われた手術台、医師も看護師も膝まで水に浸かって負傷兵を待っているというものです。悲しくも美しい作品で感動しました。(作品番号35、撮影ヴォ・アン・カン、1970年・アンスエン省カマウ)
「写真展:岡本太郎の視線」は2月18日(土)まで。「発掘された不滅の記録 1954〜1975 VIET
NAM そこは、戦場だった。」は2月19日(日)まで。かならず観るべし。
(2006年2月10日)
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052年賀状から寸言
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今年も多くの年賀状をいただきました。その中には、デジタルカメラの急進とモノクロ写真の将来に対する思いが綴られていました。そのうちのいくつかを掲載いたします。
貴サイト拝見しました。私は専門的なことはわかりませんが、時々モノクロ写真を見かけるととても新鮮な印象を受けます。見かけることが少なくなったからではなくモノクロ写真には何か訴えるものがあるような気がしてなりません。それが何なのかは私にはわかりませんけど。(HP読者) 私は、マイペースですがモノクロ写真を続けています。最近バライタ乾燥用に網戸の網を使って棚を自作しました(T校卒業生・川崎市・女) 私は現像どころか、デジカメで楽チンな写真しかとっていないので、顔向けできませんが、お体大切にお過ごし下さい。(N校卒業生・豊中市・女) 今年もモノクロ・アナログ作業で頑張ります。(T校卒業生・大分市・男) 昨年、我が手にもデジカメが来ました。今年からスタジオ写真もデジタル化です。良いのか悪いのか?(T校卒業生・岡山市・男) カラーがメインですが、モノクロもやろうと思っています。(N校卒業生・さいたま市・男) デジタルの世の中になって、銀塩の良さを再認識しました。ガンバロー!(T校卒業生・江戸川区・女) モノクロネガをカラープリントで、黒白専用ボタンを押しても黒く出ないのが不思議です。用紙のせいかとも思っています。(アマ・横浜市・男) デジタルフォト一辺倒。ボクは苦手。やれません。アナログボケの小生は、これで通します。ご指導ください。(JPS会員・兵庫県・男) 今年は『写真のルネサンス一年』と名付けて討って出ましょう。楽しきかな人生。幸いなるかなカメラ。(アマ・板橋区・男) 銀塩の分野がせまくなりましたが、モノクロ、カラーと撮り続けております。(アマ・横浜市・男) 今年もモノクロ一筋でやります。2月に森山大道さんが宮崎に来ます。「ベエノスアイレス」御自分でセレクトしたベスト展だそうです。(アマ・西都市・男) お元気ですか?すっかりデジタルカメラを活用するようになりましたが、ここぞ!という時には銀塩を取りだしています。(SONY社員・横浜市・女) 時代の変遷と言い切りたくないですネ。記録としての写真は絶対モノクロですのに‥‥。私の授業は銀塩モノクロを中心に今年も進めます。(写真学校講師・八王子市・男) 写真はますますデジタル化に突進中、居ながらにして名作がビンビン撮れそうな気配です。どこまで便利になるのやら、銀塩フィルムや印画紙は製造中止品もでてきている昨今です。昨秋、これはみておかなければと紅葉のお堀端を抜けてアウグストザンダーの写真展に行ってきました。レンガ職人や三人の若い農夫の写真など有名な数点しか知らなかった私ですが、簡素な背景処理で撮られた70〜80年まえの職種改装多岐にわたるポートレートに魅せられました。四つ切ほどの白黒バライタ写真は寡黙で雄弁でした。(JPS会員・座間市・男) このデジタルの波はどうしようもないといった感じのお手上げ状態な感じがします。(N校卒業生・さいたま市・男) バライタ印画紙を何箱か買いだめしました。(JPS会員・目黒区・男) 銀塩写真が片隅に追いやられいるような、今日このごろ、先生のおっしゃった『‥‥しかし自然の営みは、アナログです。』まったくその通りだと思います。私の写真人生は銀塩しかありません。(アマ・大田区・男)
※上記の私の発言とは、昨年(2005年)の年賀状の一節です。「新しいテクノロジーが旧来の技術を駆逐していくのは仕方がないのかもしれません。しかしそれで良いのでしょうか‥‥略‥‥しかし太古より続いている自然の営みはアナログです。私たちの息遣いも、花に集る蜂の羽音も、せせらぎの音も、北風に鳴る梢の音も、すべてアナログです。便利なデジタルフォトはあくまでも産業的なもので、銀塩写真(モノクロ写真)というアナログ技術は、自然の摂理に合ったテクノロジーではないかと思っています。」
※カットは、東京綜合写真専門学校の卒業生の飯田学さんからの年賀状です。彼は、全国の映画館を撮って廻っている写真家です。成果はいずれ見せてくださるでしょう。毎年このような映画館のイラストの年賀状を送ってくれます。かれこれ20年になるでしょうか。同じように家族を真上から魚眼レンズで撮影した写真の年賀状を送ってくださる卒業生もいます。決まったパターンの年賀状は、来年はどんなものかと期待してしまいます。
※『図書の紹介』コーナーで、朝比奈知彦著「『アナログ』人間ではダメですか!」と児玉光雄「リストラされる『デジタル脳』
最後に生き残る『アナログ脳』」を紹介しています。
(2006年1月25日)
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048富士写真フィルム鰍フ「銀塩写真は止めない」宣言に敬意
東京新聞(2006年1月20日) |
「コラムB&W」第042話にて「日本の写真史前半を支えた小西六写真工業」と題して、05年11月5日に報じられた「コニカミノルタ 写真事業、大幅縮小へ」の記事を紹介しました。さらに潟Rニカを知るために、新津重幸著「富士写真フィルム対小西六写真工業
シェア戦奮戦の秘密」から要点を紹介しました。そのコニカミノルタが、カメラ・写真事業から撤退とのこと本当に残念です。
コニカ、ミノルタ両社の歴史を振り返ってみました。コニカは、米穀商であった杉浦家が薬種問屋・小西屋六兵衛を開業したことに始まる。1873年、杉浦六三郎が写真材料の取り扱いを始めた。これがコニカの創業である。1879年、六三郎は六代目杉浦六右衛門を襲名、日本橋に写真材料と薬種を取り扱う小西本店を開業した。その後、六桜社・小西六本店・小西六写真工業・コニカ冠コニカミノルタホールディング鰍ニ歴史を刻んできました。この間に小西写真専門学校(現・東京工芸大学)創設、多くの写真家・写真技術者を輩出してきました。
ミノルタは、1928年田嶋一雄氏が設立した日独写真機商会に始まる。モルタ合資会社・千代田光学精工冠ミノルタカメラ冠ミノルタ鰍経てコニカと合併し現在に至っている。ミノルタという名前は「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」を教訓として「稔る田」を捩って命名されている。
ニコンとコニカミノルタに関する報道、特に毎日新聞の「巻き戻せない 時代の流れ」という見出しは、「もう銀塩写真はだめだ。」との思いを植え付けてしまったと思います。
私はデジタルカメラへの流れを否定するものではありませんが「全てがデジタルフォトになって良いのか」という問いを捨てる訳にはいかないのです。
デジタルフォトに問題が無いのかを精査する必要があると思います。ここで精査すべき問題性(@証拠能力(合成・改変) A記録媒体の保存性 B記録媒体の変更 Cモアレ)をあえて提言しておきます。
証拠能力や保存性を考える時、思い出すのは1970年代毎日新聞社が出版した「発禁写真」など数々の太平洋戦争の記録です。なぜ他の新聞社にはできなかったのでしょうか。毎日新聞社写真部の皆様が、命がけでこの貴重な記録(ネガ)を守ったのかのか。写真部員の努力を毎日新聞社の中で語り継がれているはずです。署名記事ですのでぜひご見解を伺いたいものです。ネガという物質だから保存できたのではないでしょう。デジタルだったら‥‥危うさを感じます。
ところで銀塩写真に対する不安から、富士写真フィルム鰍ノ問い合わせが集中したとのこと。それに答えて「銀塩写真はやめない。」という宣言が出されています。このことを敬意を持って受け止めたいと存じます。詳細は、富士写真フィルム鰍フ公式サイトでお読みください。
(2006年1月21日) |
日経新聞(2006年1月20日) |
046 セバスチャン・サルガド「EXODUS」展を見た小学生たち
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社団法人日本写真家協会が主催する「小学生写真教育プログラム」で、2校目の川崎市立今井小学校へ出張授業を行いました。対象は六年生。「日光への修学旅行で撮影させたい。」という学校側のご依頼でした。11月初旬一回目の授業を行いました。内容はカメラの取り扱い方や撮影のポイントなどでしたが、小学生らしさを考えて欲しいと話しました。
修学旅行で撮影された『写るンです』は提供していただいた富士フィルへ。現像後サービスプリントが学校に返送されてきます。その中から生徒が各自2カットを選び、四つ切サイズの注文しました。四つ切プリントが完成したところで二回目の授業です。カーペットがひかれた多目的ホールでの授業です。95名の六年生と担任の先生が三人、教頭先生に囲まれた中で行いました。20人ほどの生徒さん写真を講評しました。とても95名全員の写真を見ることができなかったのが残念でした。厳しい質問があり緊張した45分間でした。
授業終了後校長先生が「ここは帰国子女が多いこともあり写真や映像に関心が強いです。一昨年渋谷のBunkamuraで開催されたセバスチャン・サルガド『EXODUS』展を六年生が観に行きました。そうしたら『夕食の時、無口になり食欲も無かった。』と親からの報告がありました。」と話してくださいました。写真が子供たちにショックを与えたのでしょう。
小学生を子供と侮ること無かれ!彼らの感性は健全です。写真が伝えた同年代の姿が彼らを感動させたのでしょう。『EXODUS』展の最終コーナー(第5部)には『子供たちのポートレート』が続きます。きっと写真の子供たちと目が合ったのでしょう。彼らの魂を直撃したのはモノクロ写真でした。カラーなら生々しすぎて目を背けてしまったことでしょう。
写真説明:(上)川崎市立今井小学校での授業風景。奥で立っているのが私です。(下)セバスチャン・サルガド『EXODUS』展の図録。なお同展は日本写真文化協会と朝日新聞社の共催。
※「小学生写真教育プログラム」に関心のある先生方は、社団法人日本写真家協会までお問い合わせください。06年度に向けて取り組んでいます。
(2005年12月18日) |
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045ああ!高校写真部が・・・・!
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11月29日早朝の便で宮崎へ。宮崎県高校写真部顧問研修会の講師としてお招きいただきました。2010年に宮崎県で開催される全国高等学校総合文化祭のために、県内の高校写真部の活動強化のための研修会のようでした。
高校写真部の連合体はふつう高写連と呼ばれていますが、正確には高等学校文化連盟写真部会といいます。運動部は、野球部の甲子園大会のようなそれぞれの全国大会を目指して練習に励んでいます。しかし写真は個人作業ですので部活動もバラバラになりがちですし、高校間を取りまとめていくのも大変です。
10時半に会場の私立鵬翔高校に着きました。9時半から始まっていた顧問会議に同席させていただきました。会議が長引き11時からの予定のレクチャーの開始が20分ほど遅れてしまいました。午後はフィルム現像(二浴現像法)とプリント実習(B
to Bテストプリント法)を行いました。16時に終了して17時半から有志の先生方と懇親会というあわただしい一日を過ごしました。
レクチャーでは「写真部指導のノウハウ」という大きなテーマでした。そこで「映像言語という言葉がありますがイメージを広め深めるのは言葉、読書を始めとした言語生活が大事ではないでしょうか。」また「プリントが綺麗になると写真が上手くなります。」と実例をあげてお話いたしました。
顧問会議と懇親会の中で先生方が心配なことを語られていました。それは写真部の減少ということでした。小子化で高校が統合されて学校数が減っていることも事実ですが、先生方から「顧問が転勤すると部活が止まってしまう。」「写真を知らない先生が顧問になっている。」という話でした。つまり指導者がいないと写真部が潰れてしまうということです。宮崎県が特別ということではありません。実は高校写真部の減少問題を数年前より感じていました。それは千葉県の高校合同写真展で割り当てられている壁面が開いていたということからでした。つまり名簿上存在している写真部が実際には活動していない。つまり消滅状態だということです。指導者がいないまま作った作品を展示したら、みっとも無いものだったのではやる気も失せましょう。
写真界(写真家団体・メーカー・教育機関)は、高校写真部の育成強化に真剣に取り組むことが急務であると思います。
(2005年12月9日)
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039「小学生写真学習プログラム」に参加しました。
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社団法人日本写真家協会は、株式会社富士フィルムイメージングの協力を得て小学生のための「写真学習プログラム」を実施しています。私は、企画委員としてこのプログラムの立ち上げを担当した一人です。このプログラムの趣旨は「小学生の写真への興味を喚起する。」ことにあります。つまり写真(映像)文化を担う次世代を育てたいということです。美術や音楽という芸術系の授業があるのに、先端的な表現手段である写真を学ぶ機会はありません。そこで主に5・6年生の綜合学習の時間で「写真学習プログラム」を活用していただくことになります。講師は日本写真家協会の会員が勤めます。もし小学校の先生でこのホームページを見ていただいていましたら、ぜひご参加いただきたいと存じます。ご連絡は、社団法人日本写真家協会事務局(03-3265-7451)までお願いいたします。近くに住んでいる会員が担当することになっています。
初めの時間では写真の話をし、次の時間で提供されてた「写るんです」で撮影実習をします。自宅に持ち帰って家族や家の周りの様子を写すのもOK。回収された「写るんです」は富士フィルムで現像され、サービスサイズのプリントが戻ってきます。その中から2枚が選ぶと四つ切プリントをしてもらえます。原則的には講師が選ぶことになっていますが、子供たちが自ら選ぶことも可能です。四つ切プリントが出来てきたら、展示して講評という段取りです。学校や保護者には一切の負担はありません。
9月13日、新宿区立江戸川小学校でこのプログラムの授業を行いました。今年同校の創立100周年ということで、特別全学年でこのプログラムを実施しました。5・6年生は斉藤康一理事が担当し、私は1・2年生と3・4年生を担当しました。持参した4×5のカメラで画像が天地左右逆像になることを見てもらったあと、「写真とは何か」と撮影で注意しなけらばならないことを話しました。昼食は3年生と一緒に給食をいただきました。午後の撮影実習は、100周年というテーマで校内を撮影したり、私が持参したピンホールカメラを楽しんでもらったりしました。写真の選択や講評は後日となります。
江戸川小学校は、東京・飯田橋の奥にある全校生徒120名の学校です。凸版印刷の印刷博物館近くにあります。周囲は、大小の印刷会社や製本会社など関連企業が集っています。ただ一時の活況はなく、工場の移転に伴ってマンションに変わりつつあります。校長室のドアは常時開けてあります。子供たちが何時でも校長先生と話ができる環境です。私が校長室にいた下校時には、何人か連れ立って校長先生に挨拶にきました。いいですね。9月23日付け朝日新聞は「小学生の校内暴力 先生相手 増加」と報じられていますが、そんなこととは無縁の学校でした。
当日は『朝日小学生新聞』の記者さんが取材に来ていて、9月21日付けで報道していただきました。またテレビ朝日系列の「キッズニュース」で30秒の枠で紹介されることになっています。見ていただければ幸いです。10月9日(日)の朝日ニュースターの11:40〜11:55と17:15〜17:30
(2005年9月28日) |
※クリックしてください。 |
037不自由な体だけど写真を楽しんでいます。
会場の撮影はお世話係の水原和夫さん
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ワールドカップ・サッカーで有名となった横浜アリーナに隣接して『障害者スポーツ文化センター横浜ラポール』があります。入り口近くには300席のラポールシアターがあり、多目的に使われる体育室やプール、ボーリング場まで設備されています。創作工房では陶芸までできる施設があり多くの障害を持つ方々が利用し楽しんでいます。
2002年「初めての写真」という講座をおこないました。講座終了、受講者有志が「ラポール写真同窓会」を作りさらに学ぶことになりました。毎月第三土曜日に例会をおこなっています。私も遠路はるばるボランティアとして、作品つくりの助言をすることになりました。毎回の例会で選んだものを四つ切にプリントして通路に展示しています。この展示を見て後から参加する方も増えています。
それぞれ異なった障害を持たれている方、介助する方、お世話係りを引き受けてくださる健常者の方が月一の例会を楽しんでいます。9月11日「ラポールの祭典'05」というイベントが行われました。その一環で我が「ラポール写真同窓会」も特設コーナーで写真展を行いました。たった一日のイベントでしたが、この写真展だけは17日まで延長してもらえました。見ることが出来ないと諦めて、会場写真をメールで送ってもらっていたのですが、実際に見ることができました。サービスサイズで作品を選び、展示の指示をしただけだったので内心不安もありました。「観客の反応も良く大成功だ。」と施設の関係者から聞かされた時は大変嬉しく思いました。ちなみに左側にあるメオ族の子供たちを撮影したモノクロ作品が私のものです。
(2005年9月19日)
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016セバスチャン・サルガド氏の講演を聴いて
一昨日(6月19日)、渋谷の日本写真芸術専門学校で行われたセバスチャン・サルガド氏(同校・名誉顧問)の講演を聴きにいってきました。聴講の主体は特別授業ですから同校の学生さんです。一般の聴講希望者は申し込み順で定員になり次第締め切り。しかし希望者多数ということで、定員外の方は教室でモニターによる聴講となりました。先日コニカミノルタプラザで開催された「DAYS
JAPANフォトジャーナリズム展」と同様に、世界の実相を記録した写真が大事であると感じる方々が多くおられようです。モノクロ写真にも魅力を感じておられるのでしょう。田沼武能氏(日本写真家協会会長)、熊切圭介氏(同副会長)、梶原高男先生(大阪芸大講師・元日本カメラ誌編集長・私の恩師)など写真界の重鎮も多数聴講されていました。
講演の内容は、主に氏の30余年の写真家としての歩みを語れました。後半は現在進行中の作品『Genesis』についてでした。『Genesis』とは、旧約聖書の創世記のこと。だからテーマは天地創造の物語。中判カメラで撮影された制作中の一部が上映され、大いに魅了されました。このテーマを、カラーの魔術師と呼ばれるエルンスト・ハース氏が『THE
CREATION』と題して発表しています。ハース氏のカラー作品に対してサルガド氏のモノクロ写真がどのようなものになるか楽しみです。
質疑応答である学生が、「悲惨な状況で撮影しているのに、サルガド先生の作品はなぜ美しいのでしょうか。」と質問していました。私も同じ思いをしています。氏の美学のなせる技でしょうが・・・秘密を私も知りたい。。
じつは私は氏の大ファン。「好きな写真家は?」と聞かれたとき、「アンセル・アダムス、エドワード・ウェストン、ウィン・バロック、そしてセバスチャン・サルガド」と答えています。四人ともモノクロの作家。写真集は私の書棚の中央に鎮座しています。三人は、主に大型カメラで撮影していますが、報道写真家のサルガド氏が使うのは35ミリカメラ。
1994年の「WORKERS」、2002年の「XEODUS」、2003年の「ESSAYS」と開催されたサルガド氏の写真展の図録は、寝室に置いて時折見ることにしています。悲惨な状況を写したものが多いのですが、氏の愛が感じられて毎回感動を新たにしています。困難な条件で撮影された作品群は素晴らしい。薄暗い条件でもほとんどノンスラッシュで撮影されています。暗闇を切り裂くようなストロボ光は人々を驚かせてしまいます。そうでない優しいカメラワークが嬉しい。それを可能にしたのがライカとズミルックスのレンズなのかも知れません。
※「XEODUS(国境を越えて)」展のオープニング(Bunkamuraザ・ミュージアム、2002年8月31日)の際に緒方貞子さん(元国連難民高等弁務官)に説明する様子を撮影したのですが、了承をいただいていないので公開できないのが残念です。
(2005年6月22日)
012注目記事「ニッポン 人・脈・記 ベトナムの戦場から」
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今週月曜日(6月13日)から始まった朝日新聞夕刊の連載記事「ニッポン 人・脈・記
ベトナムの戦場から」をスクラップしました。
朝刊は5時半に起きて読みますが、夕刊は帰りが遅いので隅まで読むことはめったにありません。だいたいは夕刊紙で済まします。資源ごみのために新聞を整理していたら、ピュリツァー賞を受賞した酒井淑夫氏の「より良きころの夢」と題した作品が目に留まりました。連載が始まっていたのです。あわてて新聞の束をひっくり返して切抜きを始めました。記事には懐かしい名前がありました。その方々がお互いに影響し合い繋がっている様子がこの記事のポイントです。
写真を志した高校時代、写真学校での学びの期間、そして駆け出しのカメラマン時代がベトナム戦争と重なってます。当然この連載に登場する方々のことは当時より注目していました。そしてそれは憧れでもありました。岡村昭彦氏の『ライフ』に掲載された写真や著書の『ベトナム戦争従軍記』(岩波新書)、朝日新聞記者本多勝一氏の著書『戦場の村』『北ベトナム』などは良く読んだものです。結局、当時活躍していた英伸三氏と桑原史成氏が卒業した東京綜合写真専門学校へ進学し今日に至っています。
この後どなたが記事で紹介されるか楽しみです。
(2005年6月17日) |
009茨城県高写連・写真講習会で!
昨日(6月10日)、茨城県民文化センター(水戸市)で行われた高写連の研修会に講師として招かれました。今回で多分16回目となるでしょうか。私は午前中を担当し、前年度の件高校芸術祭に出品された作品の優秀作品についての解説でした。選ばれたのは林義勝氏(写真家・林忠彦作品研究室代表)でした。大人には真似のできない斬新な写真も多く見ることができました。後半は、『デジタル時代に、モノクロ写真を楽しもう』と題してお話をしました。デジタル・フォトに問題は無いだろうかということをテーマにしました。またモノクロ写真を楽しむためには、現像は化学反応だから化学処理のルールを守ろうと話しました。守ればきっと美しいモノクロプリントが作ることができます。
午後はハービー山口さんのスライドショー付きの講演。演題は『ぼくの写真とぼくの旅』でした。お許しをいただき拝聴しました。何故モノクロ写真なのかという問いに、「心が写るような気がする。」と答えられていました。「カラーとモノクロの違いは、赤いリンゴと青いリンゴがある時リンゴの色が問題なのではなく、食べた時の食感や味が問題なのだ。それがモノクロ写真だと思う。」という趣旨の話をされました。とても良い喩えだと思います。・・・・この話、ネタにさせていただきます。
※ハービー山口さんとは、中島秀雄先生のゾーンシステムのワークショップでご一緒した仲です。
※「図書の紹介」コーナーで著書のエッセイ集『日曜日のひだまり』とハービーさんの写真の原点となった写真集『LONDON
chasing the Dream』を紹介しています。
(2005年6月11日)
001『写真家の先生』は偉いのか。
過日、先物取引のセールス電話がありました。「投資していただければ、半年で2割の利子がつきます。いかがでしょう。」というものでした。私のことをやたらに「先生!先生!」と呼ぶので「何で先生と呼ぶのか。」と尋ねたところ「写真家の先生でしょう。」という答えが戻ってきました。「私は写真学校の先生だから『先生』で良いけれど、あなたに『先生』呼ばわりされる筋合いではないよ。ところで写真家は『先生』と呼ばれると喜ぶの。」と聞いてみました。答えは「・・・。」「とにかくそんな甘い話があったら他人には教えないよね。関心が無いから・・・。」といって電話を切りました。ところで『写真家の先生』は、そんなに偉いのでしょうか。
私は授業で出席をとる時、学生さんの名前を『君』『さん』と敬称を付けて呼んでいます。授業は仕事であり公であると思っているからです。しかし休憩時や校外では、親しみを込めて愛称で呼んだり名前を呼び捨てにすることもあります。触れ合いを大事にしたいからです。
・・・先生と呼ばれるのは嫌なのです。NPOザ・ダークルーム(横浜・関内)の斉藤久夫氏以下のスタッフの皆さんが、私のことを『きわおちゃん』の呼んでくださることに気に入っています。私のご幼少のころの呼び名であるからです。先生と呼ばれると緊張するのですが、これなら気が楽です。・・・
そういえば数年前に藤本写真工業株式会社が開催した『露出計を使わないでファインプリントを作る』というワークショップでお教えいただいた大阪芸術大学の里
博文専任講師も「私を先生と呼ばないでください。」と言っておられました。
(2005年5月24日)